Women, Fire, and Dangerous Things
遅ればせながら George Lakoff の「認知意味論」を読んだ。
これだけ重要な本なのにレーダーにひっかからなかったのは分厚すぎるからだろうか。
(哲学業界でも微妙にスルーされているような気もするが...)
さて、この本のテーマは明確で、ひとえに Lakoff が「客観主義(objectivism)」と呼んでいるものへの攻撃である。「客観主義」とは、おおむね次のような主張だと考えられる。
この証明は Putnam が内的実在論(internal realism)を取ることになった論拠として重要なものだが、上記のモデル論的意味論の定式化は最初からあやしい気もする。1. での「意味」と 2. の「意味」は同じものを指しているのだろうか。
Lakoff は、客観主義はPutnamが論駁した形而上学的実在論の特殊化であり、意味論の基礎付けに用いられてきたが、Putnamの証明をもって廃棄されるべきだと主張する。
ここで私にはわからないことが2つある。
Lakoff はいったいどのような人々の学説にダメージを与えたのだろうか。
(Lewis らの論理学者は別として)まず思いつくのは、Montague らの形式意味論研究者である。Montague らの理論は別名カテゴリ文法であって、古典的カテゴリとモデル理論に立脚している。彼らにとって「客観主義」が重要なのであれば、彼らの理論は痛手を受けることになる。
さらに思い当たるのは、Fodor の「方法論的独我論(methodological solipsism)」である。方法論的独我論では、内的言語(mentalese)の持つ記号(概念)の意味は記号の相互関係のみで決定されると想定される。(Putnam の証明の系として)1つの記号体系が複数の世界のありように対応するということになると、方法論的独我論も論駁される。
次に、この本のAI(人工知能)研究に対するインパクトを考えてみよう。Putnam の証明が AI 研究に与えるインパクトはそれほどないかもしれない。表象(または記号)を扱う AI 研究者は、自分たちが扱う表象は何らかの形で経験に基づいているために Putnam の証明を回避できると主張できるからだ。つまり、形而上学的実在論などという哲学的な主張にコミットしていない、と言いはればよい。
古典的カテゴリの扱いに関してはもっと大きなインパクトがある。古典的な AI は古典的なカテゴリを前提とした論理に基づいていたからである。明確に定義可能な概念のみを扱うような AI(=論理推論システム)であれば、一定の範囲内で有用と考えられるが、AI が人間が扱うより一般的な概念(または言葉の意味)を扱うことになると、古典的なカテゴリでは対処不能ということになる(AI でオントロジー〔存在論〕とか古典的なカテゴリの世界だが、形而上学的実在論の匂いまでして完全にアウトかも)。認知意味論の知見を説明する認知モデルは提出されているのだろうが、AI の世界ではまだ主流の議論にのぼってきていないような気がする。
最後に、この本は駄目押しで数学の客観主義まで論駁している(20章)。プラトン的宇宙もこの言語学者にかかってはおしまいということか...
追記:
購読中の Conceptual Graphs メーリングリストの主宰者 John Sowa 氏は「Peirce主義者」で、AI において Frege 的意味論が主流となったことをぼやいている。経験を重んじるところなど Peirce と Lakoff には共通点も多いようだ。
これだけ重要な本なのにレーダーにひっかからなかったのは分厚すぎるからだろうか。
(哲学業界でも微妙にスルーされているような気もするが...)
さて、この本のテーマは明確で、ひとえに Lakoff が「客観主義(objectivism)」と呼んでいるものへの攻撃である。「客観主義」とは、おおむね次のような主張だと考えられる。
- 集合として表現される(古典的な)カテゴリが世界の中に存在する。
- そのカテゴリに対応する記号を用いて世界を(ユニークに)記述できる。
- 認知科学の知見によれば、我々が用いるほとんどのカテゴリは明確な境界を持たず、集合として表現されるようなものではない。
- Putnamの証明によれば、ある事態を表現する記述(モデル)は複数(無数に)あり、ある記号体系が世界をユニークに記述するということはない。
- 文の意味は可能な状況(可能世界)ごとに、その文に真理値を与える関数である。
- 文の部分の意味を変えながら全体の意味を変えないということはできない。
この証明は Putnam が内的実在論(internal realism)を取ることになった論拠として重要なものだが、上記のモデル論的意味論の定式化は最初からあやしい気もする。1. での「意味」と 2. の「意味」は同じものを指しているのだろうか。
Lakoff は、客観主義はPutnamが論駁した形而上学的実在論の特殊化であり、意味論の基礎付けに用いられてきたが、Putnamの証明をもって廃棄されるべきだと主張する。
ここで私にはわからないことが2つある。
- 客観主義は本当に形而上学的実在論の特殊化なのか(逆のような気もする)。
- 上記の定式化(1, 2)がどこまで意味論の教義として意識されていたのか。
(1. での「意味」と 2. での「意味」が別ものとして捉えられている場合、上記の証明はなりたたなくなる。)
- 記号の意味は経験に基づくので Putnam が証明に用いたような「勝手な」タームとオブジェクトの対応付けはできない。
- Putnam の証明が正しいとしても、経験によって制約されるため「何でもあり」の相対主義にはおちいらない。
- ゲシュタルト的知覚や身体的運動能力などによる基本レベルのカテゴリ
- Container や Path などの運動感覚的イメージスキーマ
Lakoff はいったいどのような人々の学説にダメージを与えたのだろうか。
(Lewis らの論理学者は別として)まず思いつくのは、Montague らの形式意味論研究者である。Montague らの理論は別名カテゴリ文法であって、古典的カテゴリとモデル理論に立脚している。彼らにとって「客観主義」が重要なのであれば、彼らの理論は痛手を受けることになる。
さらに思い当たるのは、Fodor の「方法論的独我論(methodological solipsism)」である。方法論的独我論では、内的言語(mentalese)の持つ記号(概念)の意味は記号の相互関係のみで決定されると想定される。(Putnam の証明の系として)1つの記号体系が複数の世界のありように対応するということになると、方法論的独我論も論駁される。
次に、この本のAI(人工知能)研究に対するインパクトを考えてみよう。Putnam の証明が AI 研究に与えるインパクトはそれほどないかもしれない。表象(または記号)を扱う AI 研究者は、自分たちが扱う表象は何らかの形で経験に基づいているために Putnam の証明を回避できると主張できるからだ。つまり、形而上学的実在論などという哲学的な主張にコミットしていない、と言いはればよい。
古典的カテゴリの扱いに関してはもっと大きなインパクトがある。古典的な AI は古典的なカテゴリを前提とした論理に基づいていたからである。明確に定義可能な概念のみを扱うような AI(=論理推論システム)であれば、一定の範囲内で有用と考えられるが、AI が人間が扱うより一般的な概念(または言葉の意味)を扱うことになると、古典的なカテゴリでは対処不能ということになる(AI でオントロジー〔存在論〕とか古典的なカテゴリの世界だが、形而上学的実在論の匂いまでして完全にアウトかも)。認知意味論の知見を説明する認知モデルは提出されているのだろうが、AI の世界ではまだ主流の議論にのぼってきていないような気がする。
最後に、この本は駄目押しで数学の客観主義まで論駁している(20章)。プラトン的宇宙もこの言語学者にかかってはおしまいということか...
追記:
購読中の Conceptual Graphs メーリングリストの主宰者 John Sowa 氏は「Peirce主義者」で、AI において Frege 的意味論が主流となったことをぼやいている。経験を重んじるところなど Peirce と Lakoff には共通点も多いようだ。
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