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Visualizzazione dei post da gennaio, 2010

iPhone「復元」&アプリ消失

iPhoneのアプリがときどき使えなくなるので(当座の解決方法は無料のアプリをダウンロードすること)、Apple Store に行って(iPad の発表直後だったらしい)予防法を訊いた。「復元」を行ってくださいとのことだったので、家に帰ってあまり何も考えずに Mac に iPhone をつなぎ、iTunes で「復元」ボタンを押した。 しばらくすると「復元」が終わったが、購入したアプリがすべて消えている!(ついでにカメラのデータとかも) アプリ代数百円返せ〜、と思ったが、購入済みのアプリはタダで再ダウンロードできることがわかった。 アプリをちゃんとバックアップすればよいのかと思い、iTunes 上でバックアップとか「購入したものを転送」とか行いつつ何回か試してみるものの、常に購入アプリは消えてしまう。 ううむ、またそのうち Apple Store に行って訊いてみないと...。iPhone のマニュアルは読んでも意味不明だし。 (今回の台湾旅行でも旅行中に中国語辞書が使えなくなってしまい困った。途中のホテルで WiFi 接続できて修復したのだが...)

台湾

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1月22日から27日まで12年ぶりに台湾に行ってきました。 概要 5泊6日(友人宅(桃園)に4泊、高雄のホテルに1泊) 新幹線( 高鐵 )! 訪問地 桃園("台北空港" がある)、 鶯歌 、 大渓 、 新竹 嘉義+阿里山 昨年8月8日の台風被害で登山鉄道( 阿里山森林鉄路 )が運休停止のため、バンで2〜3時間かけて「森林遊楽区」を訪問。曇っていて霧の中だったことも少し残念。 高雄 東港 (屏東県)+ 小琉球 (船で約30分) 東港はマグロの町(高雄から高速バスで約40分) 小琉球島内はハイヤー(バン)で一周 台北 蔡国强 展(市立美術館) 写真集 大渓老街 素人目には日本と区別できませんね Trail in the Fog (阿里山) Sister Ponds (阿里山) A temple on the way to Alishan 嘉義 Historical Museum of Kaohsiung A View from 'Little Okinawa' (小琉球) At the Taipei Central Station (台北駅) 追記 気温 土曜日の桃園では日本の秋用のセーターとジャンパーでは寒いくらいでした。 阿里山はその格好でちょうどよいぐらい(17℃ぐらい)。 屏東&小琉球はさすがに上着がいらないぐらいでした。 今回は 台湾の屋台料理 (夜市小吃)をかなりカバーしました( 新竹 の 貢丸湯 など)。 阿里山では「 蛙の卵 」?も。 今回は在来線に乗ることはありませんでした。 (次回は在来線で東海岸を回りたいものです。) 日本統治時代の古い建築物はいたるところに(文化財として)残っています。 (私にとって)台湾の魅力は重層的な文化にあります。 中国語... 話しかけられると聞き取りは玉砕 (>o<)/ 現地の人と中国語で話すのは若干のやり取りにとどまりました。阿里山からの帰りのマイクロバス中で青島から出張中の女性と会話しましたが(阿里山には「大陸人」観光客が多くいたらしいです)。 台湾語(河洛語) ほとんど耳にしませんでした。外での会話はほとんど國語(マンダリン)のもよう。阿里山でのバンに途中で乗ってきて降りて行ったおばさんは國語じゃなかったようです

Women, Fire, and Dangerous Things

遅ればせながら George Lakoff の「 認知意味論 」を読んだ。 これだけ重要な本なのにレーダーにひっかからなかったのは分厚すぎるからだろうか。 (哲学業界でも微妙にスルーされているような気もするが...) さて、この本のテーマは明確で、ひとえに Lakoff が「客観主義(objectivism)」と呼んでいるものへの攻撃である。「客観主義」とは、おおむね次のような主張だと考えられる。 集合として表現される(古典的な)カテゴリが世界の中に存在する。 そのカテゴリに対応する記号を用いて世界を(ユニークに)記述できる。 これに対するLakoff の反駁は大雑把に言って次のようなものと考えられる。 認知科学の知見によれば、我々が用いるほとんどのカテゴリは明確な境界を持たず、集合として表現されるようなものではない。 Putnamの証明によれば、ある事態を表現する記述(モデル)は複数(無数に)あり、ある記号体系が世界をユニークに記述するということはない。 Lakoff は、Putnamの証明は「モデル理論を用いて定義される客観主義の意味論」は矛盾していることを証明しているとしている(15章)。Lakoffによると標準的なモデル論的意味論は次のことを仮定するとしている。 文の意味は可能な状況(可能世界)ごとに、その文に真理値を与える関数である。 文の部分の意味を変えながら全体の意味を変えないということはできない。 Putnamの証明は、1の関数を変えないままで、文を構成するタームと世界内のオブジェクトを複数の方法で関連づける方法を提示している。つまり、2 がなりたたないわけである。Lakoff は、このことは一般的にあてはまることであり、標準的なモデル論的意味論だけではなく、Barwise らの状況意味論にもあてはまるとしている。 この証明は Putnam が内的実在論(internal realism)を取ることになった論拠として重要なものだが、上記のモデル論的意味論の定式化は最初からあやしい気もする。1. での「意味」と 2. の「意味」は同じものを指しているのだろうか。 Lakoff は、客観主義はPutnamが論駁した形而上学的実在論の特殊化であり、意味論の基礎付けに用いられてきたが、Putnamの証明をもって廃棄されるべきだと主張する。 ここで私にはわから